やくざ映画・任侠映画の総点検

 大衆に愛され続け、しかも不当な扱いしかされなかったいわゆる“B級映画”に照準を合わせ、その生成と哀滅をたどりながら証す大衆文化論。  

            


最後の侍・市川雷蔵

 一方、市川雷蔵の前半期の作品の中ではずすことのできない作品が三本ある。三十三年の『弁天小僧』(伊藤大輔)、三十四年の『薄桜記』(森一生)、三十五年の『切られ与三郎』(伊藤大輔)である。

 『弁天小僧』と『切られ与三郎』は共に歌舞伎の素材を映画化したもでのあり、歌舞伎の様式美と映画のアクション性がみごとに調和して時代劇のある一つの可能性を示してくれた。

 『弁天小僧』は不良にしかなれなかった子供のすねぶりと、愛しながらも受け入れられない親との愛情の交流に、美しい江戸への愛着をからませ、わだかまる不満をどうしようもできずにいらいらする庶民の感情を、熱っぽく描いてみせる、悪こそ下層社会の人間達に許された自己表現の最後の手段だとうそぶく白浪五人男の面々。しかし、どんなにあがいてみても、結論は死でしかありえないという暗い見通しと迫り来る土壇場に、やけくそになって空しく暴れてみせる極道達。そして、橋、屋根、石段、路地、やりてばばあ、矢場、コマ遊び、とりはずしの階段、蝶つがいの戸板、捕手のはしご、御用ちょうちんの海、女をてごめにしようと上っていった二階の真赤に燃える美しい夕映え、赤い鳥居が無数に並ぶ間を走りぬける殺陣、そして父を前にして、子と名のれず、物干場で捕手にかこまれて自害して果てる弁天小僧菊之助の壮絶な最後と、クライマックスに突然挿入される劇中劇「知らざあ言って聞かせやしょう」のくだりのたたみかけの巧さなど、時代物に欠かせない道具だてがズラリと登場し、それぞれがみごとに生かされ、それらがすべて、登場人物のあわれさを強調する重要なポイントとなっている点、伊藤大輔のなみなみならぬ演出力をあらためて思い知らされた作品である。

 『切られ与三郎』は与三郎と与三郎をめぐる三人の女、恋人のお富(淡路恵子)、義妹のお金(富士真奈美)、女役者のかつら(中村玉緒)との壮絶な恋物語である。江戸のろうそく問屋の養子である与三郎は、下に弟である実子が生まれたので、不幸なめぐりあわせに涙しながらも家を出る。こうして彼の女性遍歴が始まる。人間社会のめぐりあわせの悲しさが、美しい画調によって切々と表現される。ラストは傷つき、ボロボロになった与三郎がやさしい義妹のお金と手をとりあい、霧にかすむ夢の世界へ、ひっそりと昇っていく。甘い感傷の中に、人間社会のきびしさがチョッピリと出ていた。画調は美しく未来的であるが、このラストシーンが暗示するものは「心中」である。伊藤大輔の狙った下層庶民の絶望的な救いのなさは永遠的な怨念の姿であり、多分に女性的である。こうした下層庶民の悪の論理は、次の時代には強靭なヒーローの出現によって悪の正当¥化へとエスカレートする。非情なまでの悪行の積み重ねがネガティブな人間性讃歌になっていくのである。つまり伊藤大輔が先鞭をつけた、庶民階級の悪の理論は『不知火検校』を間にはさみ、三十七年『座頭市物語』、三十八年『破れ傘長庵』と続き、三十九年『駿河遊侠伝』、四十二年『やくざ坊主』とエスカレートし変型していくのである。

 さて、もう一つの作品『薄桜記』も、突如登場した異端的な傑作であり、三十五年『疵千両』『大菩薩峠』、三十七年『斬る』『剣に賭ける』(田中徳三)、三十八年『眠狂四郎殺法帖』と続く、予言的な作品である。そしてこれらの本格的な時代劇が、次の大映時代劇の黄金時代を作り出すのである。(09/05/76 白河書院刊)